映画レビュー「マティアス&マキシム」友情か恋かの二者択一的ではない感情のゆくえ

 「マティアス&マキシム」(2019年、監督グザヴィエ・ドラン)を観たのでレビューを残しておきたい。

0.本作のあらすじ

 30歳で幼馴染みのマティアスとマキシムは、友人の別荘に泊まりに行き、友人の妹が撮る短編映画で嫌々ながらも男性同士のキスシーンを代役として演じることになり、それをきっかけにお互いへの本当の気持ちに気付き始める。美しい婚約者のいるマティアスは、親友に芽生えた感情に戸惑い、一方、生活の破綻した母との関係を含め困難な生活を送るマキシムは、人生をやり直すためにオーストラリアへ旅立つことを予定しており、その出発の日が迫っていた…、というのがおおまかなあらすじだ。

1.恋するマティアス、一方のマキシムは・・・?

 キスシーンを演じて以降の、マティアスからマキシムへの恋心の目覚めは、かなりわかりやすい形で表現されている。例えば、マティアスは、キスシーンの後、夜眠れずに悶々として明け方を迎え、居ても立っても居られなくて湖に飛び込み、かなり遠いところまで泳いできて迷子になってしまうとか、街でも無意識にマキシムの姿を探して、似た背格好の人をマキシムと見間違えてしまうとか、婚約者のサラといても心ここにあらずの様子だったり、マキシムを遠ざけようとしつつ、マキシムをつい目で追ってしまう。更には、パーティで皆とゲームしているなか、マキシムが他の男性の友人と親しげに話す様子にヤキモチを焼いて、マキシムがゲームでインチキをしていると言い出し、周りからは「どうした、お前、正気か?」みたいな反応をされて冷静でいられず、注意した友人と殴り合いの喧嘩になって、挙げ句、喧嘩を止めてくれたマキシムに言ってはいけない暴言を吐いてしまったり(完全に、小学生男子の好きな子いじめだ。)。周囲の目には、本当に、お前どうしちゃったの?的な奇妙な行動に映るのだけど、マティアスが恋していることを知っている観客には、彼の行動が、芽生えてはいけない恋情に戸惑い、自分の気持ちがコントロールできない苛立ちや不安感から来るものであることがわかる。

 他方で、マキシムの気持ちのほうは、わかりやすい恋心の表出がなく、読み取りづらい。キスシーンを演じた後、別荘でマティアスと同じベッドに寝ても熟睡していたし、高校時代にパーティで一度マティアスとキスしたことがあるということも、マティアスは必死に否定するのに、マキシムはあっさりと口にできる。でも、クライマックスのパーティ会場の片隅での、あの美しいキスシーンにおいて、マティアスからキスされたときは拒んでいないし、自分の衝動で以て、進んで受け入れて応じている様子から、マキシムのなかにもマティアスへの恋心的なものがあることは確かだと思う。ただ、それがいつからある感情なのかはよくわからない。まあ、ドラン監督は、マティアス役を演じたガブリエル・ダルメイダ・フレイタスについて、「彼の容姿が好きだし、カリスマ性があるのがいいんだ。落ち着いているし背が高くて鼻も高い。エネルギーが感じられるんだ。」と絶賛し(グザヴィエ・ドラン 監督と主演を務めた「マティアス&マキシム」へ想いを語る【今月の顔】 – SCREEN ONLINE(スクリーンオンライン))、マティアスは彼に宛てて書いた役だというから、マティアスは少女漫画の全方位的にモテるヒーローみたいな存在で、マキシムが潜在的にはマティアスに惹かれているのも自然ということなのかもしれない。

 映画の中で描かれるマキシムの暮らしぶりは、本当に報われない。仕事も収入がそれほど高いとも思えないバーでの仕事だし、身なりもすりきれたジャンパーを着て、オーストラリアに旅立つときもマティアス家から使っていないスーツケースを借りていること等から、経済的に厳しい状況にあることが推察できる。家族関係も、精神的に問題がありそうな生活破綻した実母の面倒を一生懸命見ているのに、その母は陽気な弟のほうばかり偏愛し、日々お世話をしてくれるマキシムには、ライターを投げつけて額にけがを負わせるわ、お金を渡してくれないとわかるとマキシムの顔に唾を吐きかけるわ、目も覆う毒親ぶり、弟もそんな彼らを見捨てるように距離を置いている。日々生活を回していくことに精一杯で、マキシムには恋に現を抜かすゆとりなんてないように見える。この点でもエリート弁護士街道まっしぐらで、美しい婚約者もいて、愛情ある母のいるマティアスとは正反対だ。でも、マキシムは、友人の妹(皆からは嫌われている)が困っていたら、誰もやりたがらないなか、代役で映画に出演してあげたり、感謝もされないのに母の身の回りの世話をしたり、見返りを求めることなく自然に人に優しくできる。呆れるほどお人好しで優しい、他者に寛容な穏やかな青年で、それは彼の生育環境を考えればちょっと驚くべきことだ。彼が本当は精神的に強い人だという現れでもあると思う。つまり、マキシムはとても魅力的な青年なのだ。実際、マキシムは実の家族以外からは老若男女問わず誰からも好かれていて、よい友人達に囲まれている。頭はいいけど融通が効かなくて、ともすれば友人から浮きがちなマティアスも、マキシムが間を取り持ってくれたことで輪に溶け込めている面もあるんだろうというのが容易に想像できる。マキシムがとてもよい子だからこそ、彼が寂しさや失望、感情を押し殺す表情を浮かべると、観ているこちらもとても心が痛くなる。困難な人生を歩む優しいこの子に、何かいいことがありますようにと願わずにはいられない。だから、マティアスがなぜマキシムのことをこんなに(これまで築いてきた社会的地位や自身のアイデンティティや何もかもをリスクにさらすほどに)好きなのかという点には、違和感なく入り込めたし、本作が魅力的でリアリティのあるラブストーリーとなっている大きな一因になっていると思う。

2.「長年くすぶっていた想いというわけではない」の意味

 ドラン監督は、上記インタビューで、「マティアスとマキシムは幼なじみで、二人ともストレートという点に最初からこだわっていた。彼らは予期せぬ感情に襲われ、完全に不意をつかれるんだ。長年くすぶっていた想いというわけではない」とも語っている。ただ、これは、カジュアルな友情しかベースにない関係を、ただ一度のキスが化学変化を起こして恋愛に変えたという話でもないように思う。確かに、二人とも女性の婚約者ないしデート相手がいて、表面的にはストレート、自分が同性愛者である可能性について考えたこともなかった風に描かれている。でも同時に、二人は5歳頃からずっと一緒にいて、周囲からもニコイチとして扱われていて、友人の別荘に泊まりに行ったときは当然のように同じベッドに寝ているなど、互いに特別な親愛の情があることは明らかだ。

 マティアスは、マキシムに頼まれていたオーストラリアでの雇用先に提出する推薦状を、実際には早々に父から入手していたにも関わらず、ずっとマキシムには渡せずにいたことが後半で明かされる。これも、マキシムが遠くに行ってしまうのを認めたくなかったからだろう。そう考えると、マティアスはキスシーンを演じる前から、マキシムにただならぬ想いを抱いていたということで、代役でキスシーンを演じたことによって、その感情が恋だと自覚するようになったように見える。

 マキシムのほうは、本人に自覚はないのだろうけど、同性愛を許容する気質みたいなものがあるような描かれ方をしている。マキシムがバス停で待っているときやバスに乗っているとき、それぞれ違う男性から何度もじっと見つめられているシーンがあって、あの男性たちからのマキシムへの視線は、恋のお誘い的なものなんじゃないかと思われるのだ。バスに乗っているときは、マキシムも魅力的な青年に微笑み返したりしているから、マキシムは潜在的には恋愛感情に性別の垣根がない人なのかもしれない。これは邪推だけど、マキシムの母親が「クローゼットのマックス」、「お嬢ちゃん」と揶揄しているのも、息子のそういう気質を見抜いていたからなのかもしれない。ただ、それはそれとして、私には、最初のキスシーンを演じる前後で、マキシムのマティアスに対する態度の恋愛的な文脈での変化が、二度目のキスシーン以降までよくわからなかった(私がマキシムの感情の起伏を感得できていないだけかもしれないが)。とりあえず、マキシムがマティアスの恋心に明確に気づくのは、印象的な二度目のキスを経た後、マティアスが推薦状を故意に渡してくれなかったことが発覚したときだと思う。マキシムはあのとき、マティアスが自分に遠くに行ってほしくないと思っていることがわかり、それをきっかけに、マティアスのこれまでの数々の謎行動の意味がようやく理解できたんじゃないかと思う。自己肯定感の低そうなマキシムにとって、マティアスからそのように大事な存在として想われていることは思ってもみないことだったかもしれない。

 総じて、彼らの互いへの気持ちは、友情か恋かの二者択一的なものではなくて、恋愛感情をも包含する強い親愛の情に見えた。これは結婚している夫婦が、互いをよき妻(夫)であるとともに親友だと評する関係性を築いていたりするのと同じだろう。ただ、あまりにも小さいころから友人として過ごしてきた二人にとっては、友人であることが当たり前で、恋愛対象として相手を見たことがないせいで、その想いが恋愛感情を含んでいることに気づけなかったということなのかもしれない。でも一度、恋かもしれないと自覚すると、お互いを誰よりも深く愛していたことに気づく、そんな感じじゃないだろうか。

3. 心に残ったシーンはやっぱり…

 この映画のなかで、鮮烈な印象を残したワンシーンといえば、やはりラスト30分あたり、心臓の鼓動のようなリズムが揺らぐhosphorescentの「Song fo Zula」と雷雨をBGMにしたキスシーンだろう。何なら、一連のキスシーンを動く絵として飾っておきたい。それくらい美しく幻想的で、官能的で、でもどこか爽やかな映像だった。

 物語の後半、様々な葛藤からマティアスはマキシムを遠ざけようとして、マキシムのほうはマティアスがどうしてそんな行動をするのかわからなくて、二人は互いに心の距離ができてしまっていたのだけど、マティアスが愛する人を前にして、もう気持ちを抑えられない様子で天を仰ぎ、理性や迷いを吹っ切り、衝動のままにマキシムの拳の傷ひとつひとつに優しく口づけを始めて、二人はこの情熱的なキスにたどり着く。特に、キスをした二人が互いをただ固く抱き締めているシーンの息遣いは、魂があるべきところに帰ってきた感覚、相手がそこに存在している感覚をお互いが確かめているような、二人の深いつながりを感じさせるもので、とても良かった。こんな演技ができるなんて俳優さんてすごい。あと、マキシムの顔にある大きな血痕のような赤い痣も、実母に罵られたときに感情を抑えるために鏡を割ってできた拳の傷も、マキシムの抱える心の痛みみたいなものを象徴していると思われるのだが、それらにマティアスが優しく触れてそっと口づけしていく姿からは、マティアスがそういうマキシムの弱い部分を引っくるめて受け入れて愛おしんでいることがわかる。お互いを素のまま受け入れている関係性なんだな、男女関係なくそんなふうな相手に出会えたら幸せだなと素直に感動した。前半にあったマティアスと婚約者のキスシーンに比べて熱量が圧倒的で、やっぱりマティアスはマキシムを愛していることがわかるシーンでもあった。

4.あのラストについて思うこと

 そのように感動的なキスシーンの直後、また振り子は逆にふれて、二人は想いを共有し損なってしまう。続くそのあとに用意されたラストも、観客に親切なわかりやすいものとはいえない。それは、ドラン監督が、自身の大切な仲間に向けて、アイデンティティとセクシャリティについて自問してほしいと話していたことと無関係ではないかもしれない。わかりやすいハッピーエンドは多くの場合、観客の深い満足感、安心感を与えるけれど、同時に思考停止を招き、自分だったらどうするだろうと観客が内省する機会を奪いかねないものだから。

 でも同時に、あのラストのマティアスとマキシムの再会と笑顔は、二人の絆の永続性を予感させるものでもあったと思う。たとえ、あの後、二人がどのような道を選び、二人の関係性にどのようなラベリングがされることになろうとも、互いが互いの半身であるような深いつながりはずっと続くのだ、と。映画が終わって最初のシーンをもう一度見返してみると、道路に引いてある二本で一つの線が、途中途切れることはあってもまた復活し、どこまでも続いていくのは、もはや共に在ることがアイデンティティになっていそうな二人の姿を暗示しているようでもある。そうした意味では、この物語はまぎれもないハッピーエンドであり、そのハッピーエンドが揺るぎないものである以上、物語はあそこで終わるべくして終わったのだという気もする。

 だからあのラストのその後を語ることは蛇足だろうし、それこそ様々な可能性が想像できるのだけれども、私の感覚からすると、マティアスには自分の気持ちを偽る器用さがない。迷いや葛藤が外に出てきすぎる正直者。自分の気持ちでいっぱいいっぱいになってしまう自己中心的な人とも言えるかもしれない。そんな不器用な正直者が、仕事や結婚相手に違和感を抱えたまま、今の既定路線を走り抜けることはできないんじゃないかという気がしている。少なくとも聡明な婚約者サラは、マティアスに自分よりも愛する人が他にいることに気づきそうだから、スムーズにサラとゴールインできるかは大いに疑問に思う。なんだかんだ、2年後、マキシムがオーストラリアから戻ってきたら、マティアスが弁護士、マキシムが事務局で、二人で法律事務所を経営するあたり(劇中の絵に出てきた「MM農場」の発展形)に落ち着くのではないかなという気がする。

5.運命の出会いは災厄か、福音か

 マキシムへの恋に気づくまでのマティアスは、表面的には順風満帆な生活を送っていた。このまま、心の声(この仕事じゃない、この人じゃない)に蓋をしてうまくやり過ごすことができれば、予測可能で穏当な幸せが高い確率で手に入るはずだった。今までストレートとして生きてきた彼にとって、マキシムとの恋を選べば未知の問題に数多く直面することは明らかで、運命の恋の代償はけして小さくはない。その恋に気づかなければ、穏やかな人生を歩めたかもしれないのに、気づいてしまったら全てが変わってしまう。それでも、どうしようもなく心惹かれるものから逃れる術はないのだと思う。運命の出会いを果たしても、手に入れるための障壁が大きかった場合、自分の心を偽って挑戦を避け、選択しなかった未来の幻影に生涯追いかけられることになるか、勇気を出してリスクを取り、コストを払い、自分の心に忠実に生きるかの二つに一つだ。いずれにしても苦しみは避けられない。そうしてみると、運命の出会いというのは実に厄介なものなのかもしれない。それにもかかわらず、運命の出会いは、人を惹きつけてやまない。こうした物語に触れたとき、運命的な出会いを果たした主人公たちに、ある種の羨望を感じるのはどうしてなんだろう。その答えの一つは、きっと、対象が人であれ、仕事であれ、生きがいであれ、魂が震えるような運命の出会いは生きる喜びをもたらしてくれるからだと思う。言い換えれば、苦しみが多い人生を生きる意味を、生き抜く強さを与えてくれるから。困難な人生を歩むマキシムにとってマティアスの存在が救いになるように。

6.終わりに

 あっという間に、2024年の3月も最終週に入ろうとしている。ようやく厳しい冬の終わりが見え、先日は、気の早い桜まつりに行ってきた。桜といえば、「世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」という有名な和歌がある。いつ散ってしまうかと心配になる桜がなかったら春の人の心は穏やかでいられたのに、というのが歌の意だと聞くが、それほどまでに人を翻弄してしまう桜の魅力を逆説的に謳い上げた歌でもある。この儚げなのに存在感のある美しい花が、我が世の春といったリア充ライフを謳歌していたマティアスにとってのマキシムに、ふと重なった。

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