9月は新学期が始まり、「学校に行きたくない」と悩む子どもが増える時期でもあるそうです。
皆さんは、学校、お好きでしたか?
私は、不登校にこそならなかったけれど、実はずっと学校が苦手な子どもでした。
今日は、時節柄、そんな10代の私に寄り添い続けてくれた一冊の本、梨木香歩さんの『西の魔女が死んだ』をご紹介させてください。
この本を読めば、心が疲れている人には直接心の栄養が滋味深く染み渡り、心が疲れている人を支えたいと願う人には、そのヒントが得られることでしょう。
フィクションでしょ?と侮るなかれ。
平成6年に刊行され、数々の文学賞を受賞し、2008年には映画化もされてきた本作は、今では、児童文学の名作との呼び声も高いですが、それは、フィクションの形を借りて、多くの人の心をつかむ真実がこの作品に宿っているからだと思います。
物語のあらすじと舞台
中学生になったばかりの少女・まいは、自分を偽って周りの人間関係に合わせなければやっていけないクラスの人間関係に疲弊し、持病の喘息発作で休んだことをきっかけに学校に行けなくなる。そして、母の勧めで、後にまいが“西の魔女”と呼ぶようになるおばあちゃんの家で休養することに。自然豊かなおばあちゃんの家で、庭仕事や保存食作りなど自然に根ざした暮らしのなかで、”本物の魔女”であるおばあちゃんに魔女修行の手ほどきを受けながら、まいは少しずつ心身を回復させていく。
親の立場で再読して気づいたこと
10代の頃は、人間関係に心が疲れたな、これでいいのかなと迷うたびにこの本を開き、主人公・まいにシンクロし、まいの視点で物語を疑似体験することで、自分を癒やし、行き先を照らしてもらってきました。今、自分が親になって改めて読んでみると、親の視点でまいを見つめる自分がいます。この児童文学の名作は、まいのように、子どもが学校に行きたくないと言ったとき、どうしたらいいのか、という視点からも多くを学べる一冊と感じます。
まいのママについての視点の変化
親の立場で再読し、最も印象が変わった登場人物は、まいのママです。ママはイギリス人であるおばあちゃんの娘で、日本人とのハーフです。
まいが学校に行けなくなったとき、ママが単身赴任中のパパに電話して、まいのことを「昔から扱いにくい子だった」、「生きていきにくいタイプの子」と話しているのをまいは聞いてしまい、ひどく傷つきます。
「ママはもうわたしに誇りが持てなくなったのだ。まいにはそれがいちばんつらく悲しかった。」(新潮文庫16頁)
私も、小学1年生の頃、人間関係につまずいたことがあって、学校に行くのが辛くて、でもそれを親に話すことにすごく葛藤があったので、まいの気持ちにはすごく共感します。なんだかんだ、子どもはママとパパが大好きです。だから、大好きなママやパパに好かれたくて、ママやパパにとっての理想(と思しき自分)をつい、能力の限りに、演じてしまうんですよね…。
だから、昔は、ママの言葉をひどいと思っていたものですが、親の立場でみたときに思うことは、子どもが不登校になったら、そりゃ親も動揺する、ということです。子どもに聞かれるようなところで電話したのは確かにまずかったけど、夫に弱音を吐くこともあるだろう、とママの気持ちも今は理解できる気がするのです。
それに、このお母さん、実は只者じゃないと思うのです。
1つは、まいがママに、「わたしはもう学校へは行かない。あそこは私に苦痛を与える場でしかないの」(新潮文庫14頁)とちゃんと伝えられたこと。
先に述べたように、子どもが親に自分の抱えているトラブルを話すのには大変な勇気がいることです。子どもに話してもいいと思ってもらうには、日頃からの信頼関係が物を言います。その信頼関係を築けていたことが、まずすごいと思います。
2つめは、まいに学校に行かないと言われたとき、その言葉の真摯さを受け止め、子どもの選択を尊重したこと。
自分が親の立場だったら、なんとか学校に行かせようとエネルギーを使ってしまいそうですが、このお母さんは、「まいがこうまで言うのはよっぽどのことだから」(新潮文庫14頁)と観念して、その選択を前提に、次の行動を考えるんです。これってすごいことで、子どもを普段からよく観察して、自分の子がどんな子かというのを理解していないとできない決断ですし、その決断を実行できるというのも、肝が据わっててすごいな、と思います。
3つめは、まいをおばあちゃんのところでゆっくり静養させたこと。この選択がなければ、まいはあれほど早く回復過程をたどることができなかったでしょう。弱っている自分の子どもに必要な栄養が何なのかを理解し、的確に環境を整えてあげるのって難しいことです。それを直感的にやってのけたのだから、さすがは「本物の魔女」であるおばあちゃんから薫陶をうけた、魔女の娘というべきでしょうか。
何者でなくても子どもの存在自体を愛し、肯定していることを伝える
ママに(恐らく弱音のなかで)「扱いにくい子」と言われてしまったまいですが、おばあちゃんは孫が不登校になった事実にもうろたえたりしませんでした。まいがおばあちゃんの家に来た初日、おばあちゃんは、力強い声でこう宣言するのです。
「まいと一緒に暮らせるのは喜びです。私はいつでもまいのような子が生まれてきたことを感謝していましたから」(22頁)
おばあちゃんの孫に対する揺るぎない深い愛情が表れた言葉ですね。心が弱っているときにここを読むと泣きそうになります(この作品にはこんな心の処方箋のような珠玉の名文が他にもいくつもあり、本当に癒やされるので元気がない人は絶対に読んでほしい…)。
この言葉で、まいは自分への自信を取り戻し、その後の回復へのスタートを切ることができたのだと思います。
自分が子どもだったときを振り返っても、子どもは、自分がしくじったと思ったとき、親や周囲の反応をよく観察しているものです。そんなときこそ、まっすぐな愛情を伝えてあげたいなと思います。
心の回復は体の回復が助ける|日々の暮らしを整えることの大切さ
心と身体はつながっています。だから、心が疲れたら、まず体を回復させること。体を回復させるには、毎日決まった時間に起きて寝て、栄養のあるものを食べ、日中は陽の光を浴びて活動するという暮らしを整えることが大切です。
まいも、規則正しい暮らしのリズムのなかで、日中は庭でハーブを摘み、ジャムを作り、洗濯をします。
生活が整ってくると、心にゆとりが生まれて、頬を撫でるそよ風、新鮮な素材を使ったごはんの素朴な美味しさ、よく体を動かした一日の後に横たわるふとんの気持ちよさといった暮らしの中にある小さな幸せを味わえるようになります。
生きるということは、本来、とてもシンプルな営みで、生きている、ただそれだけで幸せを感じられる恵みなのかもしれません。
でも、日々生きていると、表層でいろんなことが起こって、生きるということの土台を見失ってしまうんですよね。
生活を丁寧にするということは、ただ生きてある幸せをまた感じとれるようにするために、土台を整えるということなのかもしれません。
「自分で選ぶ」経験を大切にする
魔女家系出身の本物の魔女であるおばあちゃんは、自分も魔女修行をしたいというまいに、魔女になるために一番大切なのは、自分で決める力、自分で決めたことをやり遂げる力であると説きます(70頁)。
この教えに従って、まいはまず自分の毎日のスケジュールを決め、決めたとおりにやることを日々実践していきます。そして、その選択の訓練を続けたからこそ、大きな決断ー単身赴任中のパパのところへママと引っ越し、新しい学校に行く、学校も下見をして自分で選ぶという選択ができたのだと思います(163〜164頁)。
親は、子どもにとって最善を目指すあまり、子どもからつい選択を奪い取って自分が選んであげてしまいがちです。でも、今日は何の服を着ていくのか、といった小さな選択から、ぜひ子どもに任せ、今のうちから選択する力、選択に伴う結果や責任について教えてあげたいと思います。
子どもが成長すればするほど、子どもの人生に立ちはだかる選択の対象は、どんな友人を選ぶべきか(選ばざるべきか)、どの学校に進学するか、何を勉強するべきか、どんな職業に就くべきか、どの会社を選ぶのか、人生のパートナーには誰を選ぶのかといった人生に大きな影響を与えるものになります。いつまでも、親がそばにいて、親が子どもの代わりに選択し続けること、ひいては他人である子どもの人生に他人である親が責任をとることはできません。選択を奪われた子は自分の人生を生きられなくなり、不満が生じれば、その矛先は選択をした親に向かうことになり、良くない事態を自分で変えようとはもはや思わなくなることでしょう。それはとても不幸なことです。
人生の重大な局面でいきなり自分で選択することは難しい。何から考えるべきかもわからない。子どもを困らせないために、そのときに備えて、自分で選ぶ力をはぐくむ必要があると思います。
余談ですが、わが家の教育方針の第一も、子ども自身に選択させることです。人生は選択の連続ですし、自分には、考えて決めて、物事を変えられる力がある、そう思えることは、子どもを無力感や無気力感から遠ざけ、積極性を促し、考える力の土台になるんじゃないかと思っているからです。
子どもの内なる生きる力を信じて待つこと
まいが、おばあちゃんから、ずっとおばあちゃんの家にいることもできると提案をされたのに、慌てて断ってしまうシーンがあります。この、まいの気持ち、学校に行けなくて焦りを感じる子ども自身の葛藤に通じるものがあります。
守られて、何も怖いものなんてない安全な場所なのに、どうしてそこに留まることはできないんだろう。長らく、私にもその理由はわからなかったのですが、改めて本作を読み返していて、その答えは、魂の成長についてのおばあちゃんとまいのやりとりのなかにあると思えてきました。
おばあちゃんは、魂と身体が合体してまい自身であると言います。肉体があるから、さまざまな苦しみがあるけれど、魂は身体をもつことによってしか体験できないし、体験によってしか、魂は成長できないのだと。それを聞いて、成長なんてしなくていいのにと腹を立てるまいに、おばあちゃんは、こう教え諭します。
「本当にそうですね。でも、それが魂の本質なんですから仕方がないのです。春になったら種から芽が出るように、それが光に向かって伸びていくように、魂は成長したがっているのです」(新潮文庫119頁)
つまり、安全な避難場所を出て、また苦しいことも辛いこともある荒野に出ていかなくてはいけない気がするのは、成長に向けて、様々な体験をしたいという魂の本質からくる衝動なのではないでしょうか。平たく言えば、生きようとする力の表れ。
でも、心身が回復しきっていないときは、環境の厳しい荒野になんて出ていけません。だから、葛藤が生じて苦しい。でも心身が十分に回復したら、成長への衝動が勝り、外の世界に出ていけるようになる。それを焦らずに待つことが、疲れている人自身にとっても、その人を支える周りにとっても必要なことなのだと思います。
まとめ|『西の魔女が死んだ』はあらゆる人生のステージを照らす名作
文庫本だと1センチにも満たないくらいの薄い本ですが、不登校になってしまった中学生の少女、まいが自分らしさを取り戻していく過程には、まいと同じ境遇にいる子の心を救うヒントが沢山詰まっています。親としての心構えをイメージしておくためにも、読んでおいて損はありません。
まだ読んだことがない方も、かつて読んだことがある方も、大人になった今だからこそ気づく学びの多い一冊だと思います。ぜひ読んでみてくださいね。
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